共通認識について その2
前回は決定論について書きました。
「運命は決まっている」と言う感じで言ってしまえば非常に暗い考え方です。
そんな考え方は人の本能的に非常に嫌う所にあります。
私も必然的にこれに対する対抗案が無いか考え、捜します。
その中で一つの答えを見つけます。
話が飛びますが私はバイクが大好きです。バイクを乗ってボーっと考える事が大学の時に多かったです。(これが本当に好きでカブで広島から新潟まで走った事があります)
その時よくツーリングコースに利用していたのが広島の仙酔島付近です。
これは近年「崖の上のポニョ」のモチーフとなった場所で非常に景色が美しい所です(名前の由来も仙人が酒の肴に景観を利用した逸話が残されているところです)。
そんな所をうろうろ、あれやこれやと考えて走っていたのですが、ちょっと休憩という事でエンジンを止めてタバコを吸おうとしました。
腰を海岸に下ろしてボーっと考えます。眼前の景色は万景で、バイクのエンジンで慣らされた耳には、波の音と木の葉が揺れる音の涼やかな音が代わります。浜風は40kmで走り続けていた体には優しくあたり、潮の匂いもいい感じです。
他人から聞くと突拍子の無い馬鹿馬鹿しい考え方なのかもしれませんが、
その当の環境にいる本人には、当たり前のようにこう考えました。というより感じたと言う方が素直です。「この世のすべては肯定されている」と考えました。(もうちょっと我慢して読んで!wwお願いします!ww)
上記の万景、海、山、風 またバイクも、これらは当然すべて存在するものです。それは決定論から考えると必然です。必然的な形で存在しているのです。存在しているだけ「肯定」されているものなのです。
さらに考えました。
前回では,
>>そこに(運命に)人の意思というのは介入できるか?残念ながら人の脳も
>>シナプスの電気信号。物理反応とかわりないのです。
つまり人の意思も運命に組み込まれており、その判断結果、行動も運命という範疇にある、と考えてましたが、そこは逆に
「人の判断結果、行動も逆説的に言えば確実に結果に反映される!」という
今考えれば当たり前の事に気付く事に至りました。
つまり
「人の意思も、すべての要素によって(どんな微細なものであろうと)結果が決定されるこの世界で存在を肯定されており、確実に結果に影響する事が保障されている」
↓
「すべては運命は決定されている、だからこそ人の意思が介入できるのである。」
↓
「決定論的に振舞うほど人の意思が介入できる」
という事です。
これが今回得た一つのフラグです。
では別の考え方 その3に続きます。